(重要!)研究が分からない


衝撃的ともいえるタイトルをつけてしまいました(笑)
間違っている可能性も大いにあるので、意見大募集です。
半分今日のは備忘録です。


今日は久々に先生との打ち合わせ。
修士の審査が終わり、少し間があったので、自分なりに
いろいろ手を広げて文献を読み漁っていた今日この頃。
修士の審査が必ずしも納得のいく形で追われなかったがゆえに、
どうも今もしこりが残っています。


研究とはそもそもどう進めるべきなのだろうか。今その非常に重要なセンスをつかむ時期に
いるような気がします。修士のはじめに与えられたこのテーマ。
他のテーマよりも明らかに未熟な、立ち上げの時期にあるテーマです。
当たり前ですが、過去の蓄積があるほうが後任者はその恩恵にあずかることができるわけで
比較的道筋は立てやすい。一方このテーマは自分の裁量(考え)で方向が簡単にぶれる。
いや、先生の中ではぶれがないのかもしれませんが、俺がやるとぶれる。


その理由は色々考えられて、一つには経験がないためすぐに間違いを起こすから。
たとえば何か計算するにしても、はじめて知る知識を使って、いきなり使いこなそうとするので、
ちょっと油断すると間違いや勘違いを起こす。


でも一番大きいと感じるのは、研究の着眼点を得る手法が今の俺は必ずしも分かっていないこと。
俺は大抵、まずあるターゲットとなる現象を説明しようと、いろいろな文献を漁って説明しようとする。
これはつまり先人の恩恵にあずかっているわけです。これを1重、2重と繰り返す。
時にはあさっての方向から使える知識はないものかと探してくる。
こうした一連の流れが、どうもいけないらしいと最近分かってきた(気がする)。


研究とは、本来分からないことをするのであり、基本的には
「説明がつくはずがない」ことなのである。
それを最も確からしい方法(証拠、論理)で説明しようとすること自体がナンセンスなのだ(と解釈している)。
アブダクション(本)」では、「仮説の発見」などという言葉で表現されている。


ニュートンはリンゴが木から落ちるのをみて「万有引力」を発見した。
普通の人がみれば、リンゴが落ちることは至極当然のことで疑問に思わない。
しかし、それをいざ説明しようとすると直接観察している事実からは「引力」という発想は出てこない。
帰納的方法<たくさんリンゴが落ちる様子を観察して一般化する>でも、
演繹的方法<既往の知見を積み重ねてリンゴが落ちることを論理的に説明する>でも無理)
ここに一種の飛躍が入る。「創造的な仮説形成的思惟」などと文中では表現している。
飛躍って…いいのかって思うけど、文章を読み進めていくと、必ずしも飛躍にはならないということも
書かれている(現在読み途中…)。


ただ勘違いしてはいけないのが、こうした工程が全く意味がないと
言っているわけでは決してないということ。
既往の考えで説明がつかないことを説明することは大切で、
なぜかというと、そこかが、なぜ説明できないのかという、
とっかかりになるからだ。


先生がこういうことを直接意図しているかどうかは分からないけれど、きっと感覚的に持っているのだと思う。
少なくとも今思うのは、こういうとっかかりをしっかり掴める研究者に将来なっていたいし、
今はそういう訓練をする時期なのだと思っている。とにかく食らいついていかなければならないと思っている。
厳しくいわれるとめげそうにもなりますが…(苦笑)


最近よくないなと思うのが、最近あまりにたたかれ過ぎてて、
自分の意見が言えなくなっている(萎縮している)時があるので、
そういうのは改めたいなと思っている今日この頃です。


さらに言っちゃえば、この考えがあっていたとして、書くのは書けるのですが、
これを実際の研究で活用するのもまたひと苦労なんです。
だって経験がないんですから(最初に戻った(笑))


長文読んでくださった方、ありがとうです。