研究とは

今日は疲れた。自分の研究はあまり目に見えた進歩が出たとは言えなかったが、
それ以外のところで結構頭を使ったので、帰るときにはへとへとでした。
でも、心地よい疲れでした。疲れるってことは、スポーツでいえば、
重要な筋肉を動かして、いい筋トレをしているってことなんでしょう。



午前中は、指導教員の学生が集まってのミーティング、
そして研究室の先生方と一部の学生とが集まって
研究室のいくつかの運営方針に関する話し合いの場が持たれた。
どちらも、能動的に頭を使う場で、非常に有意義な時間だったように思う。
研究室を良くしようとか、より良く日々を送ろうと考えるプロセスは、
研究活動と相通じるところの多い行為である。
いや、本当は研究活動という行為は、日々をよく生きるための
人間が当たり前にもつ欲求から派生するものであり、似ていて当然でしょう。


午後は、明日中間審査を控えるM2の発表練習に付き合った。
普段のゼミよりはるかに濃密だった。明日が発表会というときに、
適切なアドバスになったかは疑問だが、自分にできる範囲で、
感じたことを彼らに伝えた。ここの頭の使い方も午前中と全く一緒だった。


そして偶然だが、帰りの電車の中でNHKのドキュメンタリー番組「プロフェッショナル仕事の流儀」を見た。
今回は宮崎駿監督が、ジブリアニメ最新作「風たちぬ」の制作の裏側に密着したものだった。
率直に非常に感銘を受けた。ガンガンに響いてきた。


驚いたのが、宮崎駿といえど、あれほど最後の最後までストーリーの全容って
見えていないものだったんだとは知らなかった。何度も何度も修正に修正を重ねていく。
研究も似ていて、ある目的を達成するために始める行為が研究だが、その過程でも
微妙にその目的が当初とは変わることがよくある。それは決して最初に考えていた目的の変更ではなく、
軌道修正でもなく、骨と思っていた贅肉をそぎ落としていって、本当に骨だけを残す作業というイメージに近い。


そして、その作業を宮崎駿監督は終始「めんどうくさい」とつぶやいて表現していた。
最初は、宮崎駿という私が思い描く人物像としては、意外な発言だなと思っていた。
でも次第に、実に当然だなと思った。


物事の本当の意味や本質、原因、上位概念(言葉な何でもいい)を突き止めていく活動は地道で、
いつ抜けられるともわからない、ぐちゃぐちゃに絡まった糸くずを一つ一つほどいていくような作業である。
でも、宮崎駿監督は、その過程から最後に一本の線が見える楽しみや快感を知っているから
(だって人間の当然の欲望だから)めんどくさいと思ってもタフに前に進めるんだと思った。
まとまった糸くずは、必ず最後にはほどける。頭では、誰でも、やりきればできる行為だと分かっていることだが、
それをタフにやりきるのはなかなかシンドイし多くの人が挫折する。
当たり前のことを信じぬいて素直にできる。これが非常に大切な要素であり、
「めんどうくさい」という発言そのものが、宮崎駿の実に素直な人間性を表しているのだと思った。