正直者がバカを見ないこと


社会生活をしていると、ある人のちょっとした気のない行動で、時に全体に迷惑をかけることがあります。
どうしたら、そういうことがなくなるか。何が根源の問題なのか。答えのない自問自答をした結果、
「素直に良心に従って行動できないこと」が問題ではないかと結論づけました。

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今日研究室で、学生全員が共通して使っているものが、適切な場所に戻されないために
全体が迷惑を被るといった問題が起こりました。実は今回に限らず、
こういうことは日常的に起こっており、誰しも問題と認識していながらウヤムヤになっていました。


こういうことって、特殊でもなんでもなく、どこにでも起きうることだと思います。
人間が社会生活を営んでいく上で必ずと言っていいほど生じる歪だと思います。
普段なんとなくで回っているけど、いざというときに問題になる。
いったい根本的な原因は何で、いったいどうしたらよいか。


帰路でバスを待ちながらあれこれ考えていました。そのとき私は、問題の根源は「当事者意識の欠如」にあると結論づけました。
研究室の例で言うなら、『後でいいだろう。誰かやってくれるだろう。たぶん大丈夫だろう。』という感情が入ったことが
問題だと思いました。どしたって人間社会、自分ひとりで全てやるのは無理なので、どうしても責任の所在が不明確になるのが問題だと思いました。



また、責任意識の欠如が問題なら、そのための解決の方向性は2通りあると思いました。
ひとつは、文字通り当事者意識を植え付けるような工夫をすること。もう一つは、逆に
人の選択肢が生じないように無機的に解決しようとすることです。


そんなことを思っていた矢先に、信じがたい光景が目の前で置きました。
信号のない交差点に不用意に入ってきた乗用車を、バイクが避けようとして、転倒してしまいました。
幸い接触はしなかったのですが、バイクの人はしばらく起き上がることができませんでした。
乗用車の運転手は、心配そうにしながらも、接触していないのでそそくさとその場を去ってしまいました。
私も、あまりに突然の出来事に、事実を受け入れるのに時間がかかってしまいました。
ようやく冷静に状況を判断できる状態になって、慌てて転倒したバイクの人(学生)を助けて、バイクを起こすのを
手伝ってあげました。大した怪我もなく、お礼を言って去って行きました。


この一連の出来事は、私の中でショックでした。
今の今まで、当事者意識の欠如が問題だと結論づけておきながら、実際自分が当事者
(被害者でも加害者でもないが、その場にいた第三者ですから。広い意味で当事者でしょう)
になってみたら、まったく動けませんでした。動くまでの数十秒にいろいろと考えてしまいました。
何かしら自分に言い訳をして、いいように解釈して、助けることを躊躇してしまいました。
恥ずかしいというか、情けないというか。


その後、改めて思ったのは、社会生活における歪の原因は、当事者意識の欠如が本質ではないということでした。
何らからの理由で良心に従った行動がとれないことが原因となり、
それを正当化するために、自分に言い訳をしたことで当事者意識が薄くなるのではないかと思いました。


なにかしらの選択を余儀なくされた場面で、人は必ず自分の価値観に沿った良心的な行動の選択肢というのがあるはずです。
言い換えれば、同じ状況を第三者的にケーススタディーをすれば、こうすべきだ!という選択肢があるはず。
でも、それができない何かしらの原因が現実には、存在することが多い。
(私の例で言えば、他人の目だったり、自分への言い訳だったり)


いかにそういった背景を排除してあげるか。良心に沿った行動を移せるような環境を整えるか。
もうちょっと端的に表現するなら「正直者がバカを見ない状況作り出す」ことが大切だと思いました。
言うのは簡単ですが、もちろんやるのは容易ではないと思います。でも、誰しも納得できる本質なら、
よりベターな解答は存在すると私は思います。次は行動の番です。


追記:こういったことには正解はないので、考えようによっては時間の無駄にも思えます。
でも、最近思うのは、これも一つの思考力をあげるプロセスであり、本質を見抜く練習であり、
結果何かを成し遂げようとするときに、全体がよくなる方向性を決める決断力を養うことにつながっている思っています。