教育法・勉強法

周りが結婚ラッシュを迎え、さらには子供も生まれたという報告が、だいぶ珍しくなくなってきました。
大学にいると、どうもそのあたりの感覚が疎くなりがちですが、自分もそういう年齢に達しており、
決して絵空事ではないのだなと、このところ常々実感しています。


結婚は、パートナーとのある種の契約ですから、ほぼ出来上がった歯車をかみ合わせる作業に近いのかなと思います。
ただ、子供を持つということは、その歯車を作る過程を経るわけで、
とてつもない覚悟を要することなのでは・・・と個人的には真面目に考えています。
(それに近いことを母親に話したら、「あんたへの教育は行き当たりバッタリだったよ」と笑われました)


ふと、自分はこれまでどういう教育を受けて、どういう風に勉強してきたかなと、考えてみました。
高校生までは、いや研究室に入るまでは、主として、座学を主とした一方通行の授業が多かったように思います。
ある程度型が決まっているので、その範疇では思考しますが、あまり飛躍的な発想というのは生まれにくい。
もちろん、授業を工夫してくれていた先生は大勢いましたが、やはりどこかテストに向けた
いわゆる詰込み型の勉強法を優先する感覚は抜けなかったように思います。


今は、もちろん一方的に教えを乞うこともありますが、基本は自分で情報を集めてきて、
考えて前進するという自己主体型の教育法・勉強法に移行しています。これこそが、本来人間にとって大切な
思考力だったり、人間力を養う唯一無二のプロセスなのだろうなと最近思います。


もちろん、座学を主とした教育法からの詰込み型の勉強法を否定するわけではありません。
むしろ、ある段階までは必須のことだとも思います。たとえば英語などがその典型で、
諳んじていえるぐらい頭に英文のパターンを叩き込む(英作文は英借文だと思っている)のも
必要だろうと思っています。そのおかげで、それなりの教養が身に付き、今の自分もあると思うからです。
でも、やっぱりこれでは成長にも限界がある。それがすべてだと思ったら大間違いです。


自分も性格がなんやかんやで真面目なので、あまり前者のような教育・勉強法に疑問を持たずに育ってきました。
だからこそ、今のスタイルが正直あまり得意ではありません。それは言い換えれば、
現時点で研究活動が上手ではないということです。研究を遂行する力でいえば、自分よりもはるかに
高い能力を持っている人は、後輩を含め同年代でも何人も見てきました。


でも、出来ていないからこそ身に着けたいとも思うし、そもそも研究の道に進もうが、
研究と全く関係のないことをしようが、こうした一連のプロセスから身に付く力は
共通して必要なことだとも思います。また、下手くそだからこそ、強く感じることもあり、
人の心に共鳴する教育をすることができる可能性もあると思っています。


話が発散しそうなので、まとめると、要は今はそういうプロセスを学ぶ時期であり、
来るべき時(それが学校教育なのか、職場での後輩教育なのか、わが子の教育なのかはわかりませんが)に備えて、
しっかりと意識して日々を過ごすこと。そして特に今、3年間の成果をまとめるこの時期が
プロセスの全体像がはっきり見えてくる貴重な時期であるということを念頭に置いて日々を過ごしたいなと思いました。